California Life ~CPAを目指して~

カリフォルニア生活、CPA進捗、クリスチャンについて気の向くままに綴ります。

【番外編】サウスカロライナ州・チャールストン

アメリカに移住してすぐ、旦那さんの学校が冬休みに入りました。冬休みは12月下旬から1月下旬までの約4週間と長めです。引っ越ししてほどなくして「冬休みは家族(親戚)とバージニアとチャールストンで過ごすけどいいかな」と相談され、アメリカのクリスマス時期ってそんなもんだよなぁ、と特に深く考えず「いいよ!」と返事して旅行行程のアレンジをおまかせしていました。


さて、学校が休みに入り翌日。まずは旦那さんの両親の家があるバージニア州に飛行機で向かいました。ボストンからのフライト時間は約2時間。アメリカ国内は広いけど、飛行機で移動したらあっという間です。距離にすると885キロほどなので東京―広島間ぐらいでしょうか。そこで両親・義妹夫婦・友人とクリスマスをひたすら食べて過ごしました。食事の準備も片付けも「勝手がわかってるから私がやっちゃうわ」と言ってくれるお義母さんにおんぶにだっこ。嫁失格ではないかと今更ながら少し反省です。


クリスマスが明けた翌日、明日から伯母さんに会いにチャールストンに行くから荷物を全部まとめてね、と言われました。その時まで、てっきりチャールストンは近くにあり、荷物ピックアップにまた実家に戻ってくるのだと思っていました。はて、チャールストンとはどこぞな?とそこで初めて疑問に思い、「車でどれぐらいかかるの?」と聞いたら大体6時間、とのこと。


6時間!? 遠ぉっっ!!!


グーグルマップを見ると、チャールストンはアメリカ南部のサウスカロライナ州に位置していました。旅行行程をちゃんと把握していなかった私が悪いのですが、結構有名な観光地のようで、ボストンに帰ってきて本屋に行ったら国内旅行本コーナーに様々なチャールストン観光ガイドブックがありました。もっといろいろ事前に調べればよかった・・。


行きしなに、チャールストンは有名な観光地で食べ物がおいしいことでも知られているんだ、とさらっと教えてもらいましたが、伯母さんとゆっくり過ごすことが目的だったので、がっつり観光!とまではいきませんでした。それでも有名な観光スポットを数か所回ることができました。そして旦那さんが食べたいと言っていたチキンワッフルも無事食べることができました。


「チャールストンに行ったらチキンワッフルをたべるからね、チキンワッフル」となんどか念押しされていたチキンワッフル、食べてみたら衝撃でした。食べられてよかったね。


あまり、調べずに行ったので王道名所を外している気もしますが、チャールストン近辺で見ごたえがあったところをいくつかご紹介します。


1. サイプレス・ガーデンズ;入園料 大人10ドル 
一番ここが記憶に残っています。
チャールストン市内から車で30分ぐらいのところにあるプランテーションで、The Notebookという有名な映画のボートシーンの撮影がされた場所でもあります。庭には、バタフライハウス、沼地に生息する生き物がみられるミニ水族館、沼(Swamp)、等があり滞在時間は2時間ほどですが、十二分に楽しめした。


一番の魅力は沼でのボートライドです。ガイドに漕いでもらうか、自力で漕ぐか選ぶことができます。ガイド付きは時間帯が決まっておりタイミングが合わなかったので、我々は自力でボートを漕ぐことにしました。ボートに空きがあったのですぐに案内してもらいました。


沼地にはワニが生息しており、スリル満点です。「矢印をたどっていってね、時間は大体40分ぐらいかかるよ。」とだけ説明を受け、出航。ワニに関する注意点とか、セーフティーの説明などは特にありませんでした。(航路途中、低い橋の下を潜る時があり、ちょっとヒヤッとしました。)


沼地は水面が鏡のようになっており、底はおろか水の中を覗き見ることができません。オールがワニに当たらないかドキドキしましたが、結局ワニらしい物体は確認できず。ワニが沼から顔を出すこともあるようなのですが、冬場だからなのか、我々が行ったときはワニを見ることができませんでした。残念。(でも、ミニ水族館で目がくりっとしたワニを見ることができます。じっとみると、見つめ返してきます。)


2. チャールストン市内散策;南端のホワイトポイント・ガーデンから散策開始!
チャールストンでは古くから歴史保全が進められ多くの歴史的建造物が残っています。街並みがきれいなので街をただぷらぷらと散策するのでも十分楽しめます。見学可能な建物もいくつかあり、私たちは、途中ナサニエル・ラッセル邸に立ち寄りました。ナサニエル邸から東に移動すると海沿いの道に突き当たります。私たちは車をホワイトポイント・ガーデン横に止めていたので海沿いをそのまま南下し南端まで戻りました。



3.レストラン;
Jestine’s Kitchen 
観光スポットではありませんが、アメリカ南部料理が楽しめるレストランです。フライドトマトやフライドオクラなど、ボストンではあまり見かけない料理が楽しめます。フライドオクラはサクサクしていてやみつきになります!ボストンでもサイドディッシュで、フライドオクラを出してほしいなぁ・・。その他、フライドシュリンプやスケトウダラのフライ(揚げ物ばっかり)、名物のコーンブレッドを食べ物ました。いずれも添えられていたソースがおいしかったです。


Early Bird Diner
これが、旦那さんに念押しされたチキンワッフルのお店です。
とにかく大きなワッフルとフライドチキンがワンプレートで運ばれてきます。ワッフルは厚みがあり、外と中のテクスチャーの違いに感動。表面はサクッと中はしっとり。チキン用に添えられたソースは甘めのマスタードソースでした。酸味と甘みが利いていて、チキンと抜群の相性です。とにかく、私がレビューを書くより、ぜひ味わってもらいたい一品です。




最後に。アメリカ・日本国を問わず、久しぶりに家族と時間を過ごすと、いろんなドラマが生まれますね。昔話あれこれが聞けて、濃密な冬休みを過ごすことができました。


人気ブログランキング

【ボストン】マサチューセッツ植民地

2019年末にボストンに移住しました。


ビザ厳格化により、婚約者(K1)ビザが下りるまで約8か月ほどかかりましたが、ようやく入国できほっとしています。入国までのステップ、入国後のステップなどもこちらで共有できればと思いますが、本日は移り住んだボストンについて書いていきたいと思います。


ボストンについて書くといっても、かろうじて記憶しているのは高校生の時に学んだ「ボストン茶会事件」や「ピューリタン革命」というワード、合わせてぼんやり思い出すのは、アメリカは移民が集まった国で植民地化は東海岸から始まったということぐらいです。


今日は、入植がはじまる前のボストン近辺はどういう状況だったのか、またボストンエリアへの植民地開拓がどのように進んだのかを調べてみることにしました。


まず、植民地化が進む前ですが、現在のボストン近辺には1万2千年ごろ前からネイティブアメリカンの先祖が暮らしていたようです。日本で言うと縄文時代にあたりますね。ネイティブアメリカンの記事を読むときりがないので、時を大航海時代に移します。


アメリカ大陸へヨーロッパからのコンタクトが始まったのは大航海時代(15世紀中ごろ)です。大航海時代、最初にアメリカ海域に到達したのは1492年の彼のクリストファー・コロンブス。彼はボストン(北米)付近というよりは現在の中南米のバハマ諸島近辺を航海していました。


北米沿岸をはじめに探検したのは、イギリス王ヘンリー7世に後援を受けたカボット父子です。コロンブス大西洋横断からから約5年後のことでした。(1497・98年)


コロンブスもカボットも大西洋を渡ってたどり着いたのはアメリカ大陸ではなくアジアだと思っていました。新大陸だと気が付いたのは少し後のアメリゴ・ヴェスプッチです(1454〜1512)。新大陸発見となれば入植計画が発足しそうですが、この時代は植民地を恒常的に経営する力はなかったので、植民地建設の事業は起こりませんでした。


最初に北米大陸へ入植を試みたのは、コロンブスやカボット父子の探索から100年ほど経った1580年ごろ。イギリスのエリザベス1世の命を受けたウォルター・ローリーがボストンから車で10時間以上かかるヴァージニアに植民地建設(1584年と1587年)を試みました。新大陸から富を引き出し、スペインの艦隊を襲撃させる基地を作ろうとしていました。ウォルター・ローリーは現在のヴァージニア州に隣接するノースカロライナ州にあるロアノークに基盤を置きヴァージニアへ恒久的な入植を試みましたが、定住化までには至りませんでした。ロアノークに送った開拓者全員が行方不明になったとかで、原因は今も解明されていません。


エリザベス1世の後のジェームス1世の時世になり、彼から特許状を与えられたロンドン会社が1607年にジェームスタウン@ヴァージニア州を建設。ようやく植民地の形成に成功します。


時同じくして、イギリスでは宗教対立が起こっています。宗教対立といってもキリスト教の宗派対立です。エリザベス1世のときにイギリス国教会(国王が教会の最高統治者となる)を確立、ジェームス1世も王制を強めるため宗教統制を強め、カトリック、プロテスタントの中でも非国教会であるピューリタンを厳しく弾圧しました。


そのため、1620年に迫害をうけたピューリタンの一団ピルブリム・ファーザーズが、メイフラワー号で北アメリカに渡り、プリマスに上陸しました。このプリマスはボストン市内から車で1時間ほどのところにあります。彼らはヴァージニア植民地の成功の話を聞き、そこを目指してイギリスのプリマス港を出発。3か月ほどの長旅を経て11月中旬にマサチューセッツ州ケープコッドに到着、上陸し植民地プリマスを建設しました。入植予定地変更によりバージニア会社(植民地建設のための勅許会社)からの特許状が使えず、上陸直前に、入植者全員が自主的に多数決の原理に従って運営する植民地政府を樹立することを宣言するメイフラワー契約を締結しました。


1630年には新たなイングランド国王チャールズ1世から与えられた特許状に基づき,セイラム・ボストンを中心とするマサチューセッツ湾植民地が建設されました。チャールズ1世はジェームズ1世に続く王で、ジェームズ1世同様ピューリタンを弾圧しましたが、1630年に出港した開拓者(清教徒)は弾圧が理由でアメリカに移り住んだわけではないようです。


ちなみに、ボストンはイギリスのボストン地域からの移民が多く、町の名前をボストンと名付けたそうです。


結局、冒頭に述べた「ボストン茶会事件」や「ピューリタン革命」まではたどり着きませんでしたが、疲れてきたので今日はこのあたりで書くのをやめようと思います。また、どこかで時間を見つけてこの続きを書いていきたいです。


最後に、今回参考にした資料はオンラインリソースが大半です。信憑性ありそうなソース情報を参照していますが、オンラインリサーチの難しさを感じました。



人気ブログランキング